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日常生活でのできごとや思ったこと。
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★『なぜ家族は殺し合ったのか』(プレイブックスインテリジェンス)/佐木隆三
北九州監禁殺人事件について書かれています。 松永太と緒方純子という男女2人によって7人もの命が奪われた事件です。 本書では、主に裁判の模様などからこの凄惨極まりない事件の全貌が見てとることができます。 殺害方法や遺体の解体はまさに鬼畜の所業です。 7人のうち6人は容疑者である緒方純子の家族です。 緒方純子は容疑者でありながら彼女もこの事件の一被害者と言えるのかもしれません。 控訴審の判決で松永太は1審判決を支持控訴となっていますが、緒方純子は情状面を評価して1審判決を破棄、無期懲役になっています(死刑基準に違反として高検が上告していますが)。 日本では被害者数が4人以上は死刑という基準みたいなものがあるようです(罪質などによっては4人以下でも死刑)。 どうなんでしょうか。 それにしても、人間が人間をここまで追い詰めることができることに恐ろしさを覚え、また追い詰められ異常な心理状態に陥ったとして人間がここまで凄惨なことができることに驚愕します。 そして、大切な家族を無残にも殺害された遺族や父親を殺害され自身も監禁されてた少女、また容疑者二人の間にもうけられた男児2人の人生を思うとやりきれないです。 アクアパッツァを作るんだと昨日からはりっきって言っていた私。
夕方いつものように鈍太郎から電話がかかってきて、アクアパッツァ作ったの?と訊ねられました。 まだ作っていなかったので、「まだ」と答えたら「上手にできるといいね、あやちんお料理上手だからね、上手に出来たら今度作ってくれるんでしょう?」と言われました。 良いこと言うなと思いつつ、自称趣味は料理と豪語する彼とちょっとしたお料理談義をしていて、私は同じ味のものが二度と作れないからなぁとぼやいていたら、「そんなことないよ、お好み焼きとかさ…」って。 おいおい、慰めになってないよ。 お好み焼きって何だよ。 突っ込んだら、アサリのパスタも多少塩加減が違ったりするけどいつも同じ味だよという意見も出てきました。 アサリのパスタねぇ…。塩加減以外はほぼ味の決めてってないよね。 ま、いいんですけど。 しかも、よくよく考えてみたら、お好み焼きってほとんど私じゃなくて君が作ってるよねー。 なんともどんまーいな鈍太郎。 アクアパッツァは塩加減がいまいちでしたが、家族には大好評でした。 もしまた作るなら今度はフライパンにしようと思います。 どんまーい。 今から夕食を作ります。実家で。
ここ最近スーパーでいつも気になっていた鯛を購入したので。 切り身と頭がパックに入っています。 旬のあさりも入手。 目指すはアクアパッツァです。 本当はお魚は丸ごとのものを使用するようです。 なので、アクアパッツァ風です。 スーパーなどで食材を見ていると突如として料理熱が出てきたりします。 でもって、買い込んで大半は実家へ。 自分の部屋のキッチンはキッチンと呼べる空間ではなく、熱も冷めてしまうのです。 ★『妻はなぜ夫に満足しないのか―中高年「仮面夫婦」のカルテ』(角川oneテーマ21 B‐102)/安岡博之
読み手として据えているのは完全に男性でした。 男性にしても女性にしてもここに書かれているようなケースに当てはまるとは限りませんが、女性でも「なるほどねー」と読むことができますし、男性にとっては「ふむふむ」と指南書になるんじゃないでしょうか。 こういう時にはこうすべきという具体的な例が挙げられていたりしますから。 でも、こういうのを読まないと世の多くの男性(夫)というのは女性(妻)のことがわからんものなのかと思わなくもないですね…。己で気がつけよ!と思うのですが、その己で気がつく男性が恐らくとても稀少なためにこういう本も出現するのでしょう。 夫婦の間でプライオリティーの相違があった場合、その関係性の維持をしていくことは非常に困難で、双方共に負担になるだろうから離婚へ繋がるというのは頷けます。 でも、そもそもある程度配偶者のプライオリティーなるものはお見合いでもない限り、夫婦になる以前にうすうすわかっているんじゃないでしょうかねぇ。 夫婦になる前にその辺を互いに辟易しながらもすり合わせて、すり合わせがそこそこ上手くいったと思えて、それなりに納得という形になって、結婚に至れるじゃないでしょうか。 夫婦になったからって豹変されると怖いですね。怖いし、ものすごい迷惑。 そんなことあるもんなんでしょうかねー。ありそうですね…。 妻のことをはじめ察しが悪かったり、察することができない男性って基本的に多いものなんですね。 なんなんですかね。でも、ある意味幸せ者ですよね。 参考文献に挙げられていた亀山早苗著『夫とはできないこと』が気になりました。 ★『ハブテトルハブテトラン』/中島京子
久しぶりにほっとできる作品。 東京の小学校で5年生になった大輔は1学期に嫌な目に遭ったことで学校へ行けなくなってしまいます。 そんな彼が、2学期限定ということで広島にいる祖父母の元から学校へ通い、日々を過ごします。 広島の小学校で出逢ったクラスメイトは、転校してきた彼に頓着することなく接し、地元のイベントなどを通じてあっという間に仲良しに。 広島という土地でさまざまな人と交流することで大輔は「挫折」というものから救い揚げられ、更にある女の子を訪ねる大冒険によって自ら自信を取り戻します。 しまなみ街道を自転車で懸命にひた走る小学5年生の少年の姿を想像し、不覚にも涙が。 瀬戸内海はとても美しい海です。 私は、小さな島々をポコポコと浮かせ穏やかに佇むその海を生まれて初めて見た時はとっても感動し、泣きそうになりました。 また、見たいです。あのおおらかで優しい海が見たいです。 出不精だけれど、あちこちと行ってみると感動というものが確実にあります。 行かなくちゃと思います。 私は、こういうお話に滅法弱いです。そして、方言というものにも。 タイトルである「ハブテトルハブテトラン」は備後弁で、「ハブテトル」とは、「すねている・ むくれている」という意味で、 「ハブテトラン」は、その否定形なんだそうです。 ![]() 今日は、お仕事帰りに従兄宅へ。 2月に生まれた赤ちゃんのお食い初めのお祝いです。 玄関に入ってまず、目に飛び込んできたのが、コレ! 乳母車(何やら“ベビーストーラー”とか言うみたいだけど)なんですが、初めて見ましたよ、この乳母車。 セレブ御用達らしいっす。 ほほぉ、と関心しきり。 シート?部分も2種類あって、アレコレと見せてもらいました。 ここのお宅へ伺うと己の庶民度を痛感たりもします。 (とはいえ、とくに羨望を抱かない自分がいるのですが…) ※友人のコメントで“STOKKE”というメーカーのだということが判明しました。 Orbit Infant Systemではなかった! 何はともあれ、赤ちゃんたるものセレブも庶民もありませぬ。 可愛い〜。とにかく、可愛い。 なんだかんだと初対面となる私は、最初おそるおそると抱っこ。 でも、この1年で私は大好きなお友達夫妻の子どもを抱っこしてきた経験の甲斐あって、ちょっと経った時には、小慣れた感じで抱っこできました。 しかも、私の抱っこで寝てくれた! 可愛いのぉ。癒されるのぉ。 赤ちゃんってすっごく良い匂いする。 帰ってからも、抱っこしていた腕の匂いをくんくんと嗅いでは“ほぉぅ”となります。 今月はちょっとしたベビー触れあい月間になりました。 そして、それは己の母性を垣間見るちょっと切ない月間でもあるのかもしれませんね。 赤ちゃん、欲しいなぁ〜。 …と、何事にも感化され易い私は思うのです。 が、しかし、親になる以前の問題があることを思い出し、溜め息をつきます。 きゃー、発車した。
この新宿のバスターミナルって宇宙基地みたい。 いかにも発車って感じ。 バスには私を含めて4人くらいです。 足は伸び伸び伸ばせるし、シートのリクライニングもしたい放題。 しかも空いてるからお席の移動はご自由にだって。 快適だわ。 歩道を行くお勤め人の方々に手を振りたくなります。 ★『逆襲、にっぽんの明るい奥さま』/夏石鈴子
先週のお休みの日にベッドに入って、この本ともう一冊『ハブテトルハブテロラン』という本と合わせて二冊を一気に読んだのですが、あんまり体勢を変えたりしなかったせいかこの日以来ずっと尾てい骨が痛み、もしや床ずれか!?とちょっとビビッています。 正しい姿勢で読むべきなんでしょうが、本を読むところといえば電車の中や喫茶店を除き、ほとんどベッドの中で寝転んで読みんでいます。 さて、本題。 にっぽんの奥さまたちは大変だけれど素敵だなと思える温かい視線で描かれたちょっとした連作短編集でした。 “奥さま”はもちろん未婚女性にとってもどこかホッと安心できて、哀惜さえも愛しみ、色んな自分を認めてあげることができるような感じのお話かな。 そして、男性がこの本を読む価値は女性以上にあると思います。 知ればいい、女性の心強さ、逞しさをね。 「お茶くみ奥さま」 “その人がやっている時の顔や様子を想像するの。…(略)そうすると、たちまちおかしくなるのよね” 「レジ打ち奥さま」 “やっぱり子どもには、当たりとハズレがある” “買った長ねぎを半分に切ってと言う人と、そのままで持って帰る人” “ママ、泣くな” 「長生き奥さま」 “荘一の目からいっぺんに涙がぶわっと盛り上がって、両方の目から流れ落ちた。それを見ただけでもわたしはこの人と結婚して、本当に良かったと思った” “わたしのあの二つのおっぱいは、荘一の記憶の中に預けてあるのだ。” 「安心奥さま」 “夢。この言葉を聞いたり、見たりすると、「何を余計なことを」と思う。” “人間にとって結局夢は身を滅ぼすこともある猛毒だと、わたしは思う。” 「加味逍遥散奥さま」 “この人たち、つまり夫や子どもというのは自分の都合のいいようにしか、わたしを見ていない” “わたしが言われてきたことは、いつも、「もっともっと」ということだけだ。…(略)どんなにやっても、まだまだ十分ではなくて、「もっともっと」と言われ続けてきた。いくらやっても全然足りない。わたしは永遠に求められて奪われて磨り減っていくだけだ。” 「天城越え奥さま」 “わたし自身の大きな欠陥は、自分の娘を全然かわいいと思えないということだ。” “五回目の曲が流れるのを聴きながら思う。わたしは、自分がしあわせになりたくて、ああしたのだ。あの時、ああするしか他に道はなかった。” 「にせもの奥さま」 “手は、体のどの部分よりも生々しく他者を求めている淋しがり屋の器官だと思う。” 「逆襲奥さま」 “わたしものすごいストレスになるのでお義母さんにお目にかかりません。無事子どもが生まれたら、ご連絡します。子どもが生まれても、お義母さんが、わたしに嫌なことをしたら、子どもを見せませんし抱かせませんから。” ![]() 日曜日は、お仕事を午後からお休みにして代々木公園のタイフードフェスティバル(今はタイフェスティバルに名称変更したらしい)に行ってきました。 これがまた混んでるんだわ。 混んでると私はすぐにイライラとしてくるのですが、隣には鷲や鷹並みに各店舗の食べ物に目を光らせ、飄々と歩く鈍太郎が。 姉をはじめその友人方々がシートを敷いて酒盛りをしているという情報を得ていた私は、飄々としている奴をよそに携帯で姉に連絡。無事に連絡がついて、便乗させてもらいました。 拠点があると楽ちんです。 腰を落ち着けた私は姉の友人やらそのファミリーの子どもたちとお喋りしたり遊んだりしながら、鈍太郎がせっせと買ってきてくれたタイ料理の数々を食べ、お酒を飲むのでした。 いろいろ食べておいてなんですが…実は私、タイ料理って食べる前まではすっごく食べたい感じがするのですが、食べるとやっぱり苦手な味がしたりして戸惑う食べ物なんですね。 私にとってタイ料理とは、いっつもそういう食べ物。 なのに、なぜか“タイ料理を食べたい気分”というのにはなるんですよね。 で、食べては、「あぁ、やっぱり苦手かも」と思うのです。 何度それを繰り返していることでしょう。 でも、ちょっと慣れてきたかも。今回はわりと美味しいかもねーなんて思いましたから。 それでもパクチーが口に入ると「わわわ」となるし、ナンプラーの香りにも「およよ」となる。 きっと懲りない私は再びタイ料理を食べたい気分になり、実際食べに行くのだと思います。 ★『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書 736)/篠田博之
「極刑」、我が国で言うなら「死刑」についてどう思うか…。 被害者感情を慮るならば、「極刑以上の刑を」という気持ちが生じることはおそらく必然的なことなのだと思います。 死を持って償う…それってどうなの?それってどういうこと?果たして、死刑という刑罰を持って罪が償えるものなの?・・・そういうことを、考えさせられます。 また「死刑」という制度が、犯罪の“抑止”となるのかというと、おそらくそうではないことをこの本を読む限りでは思います。 でも、それは一部の人間にとって“抑止”とならないだけなのかもしれず、一概には言えといういうのが実情だとも思います。(むしろ、そう思いたい) この本で主立って扱われている人物は、宮崎勤、小林薫、宅間守の3氏です。 この3氏の内、現時点で既に死刑が執行されているのは宮崎勤、宅間守の2氏。 宅間守には獄中結婚を望んだ女性の存在が2名いて、実際その内の1人が彼と獄中結婚をし、死刑確定後も身内として接見、更に異例とも言える速さで執行された死刑後は妻として遺体の引き取りをもしています。 なぜあえて両親の猛反対を受けてまで、世間の非難を浴びてまで、投獄の身の人間との結婚を望み、それを実行するのか。私としては婚姻関係を結んだその女性に対し、非難をするという以前に「なぜ」そうするのか、そのところが知りたいです。 そして、想像を絶する犯罪を犯した彼らに対しても「なぜ」ということが先立ちます。 社会規範に対する希薄さがあったのは紛れもないことであると思う。 では、この本で語られるような生い立ち、家庭環境などが彼らをここまでの犯罪へと至らしめたのか…というと、それを完全に認める気にはならず、否定したくもなります。 唯一死刑執行となっていない小林薫は、死刑判決に対し自ら控訴取り下げましたが、控訴取り下げ無効の申し立てをするとか…。ただ、それが判決そのものが不服なのではなく、あくまでもその理由にあるという点に彼の犯罪意識の姿勢をうかがい知ることとなります。 重犯罪の裏側に潜むものがなんなのか、それとも潜むものなんてなくて実際は単なる快楽主義、短絡的、自己本位なものなのか、そういった「なんなのか」ということを私は知りたくなります。 そして、他人事のように思いがちな重犯罪を私は意外にそうでもないと思うようにしています。 いつ自分が加害者に、そして被害者になるやもしれぬと。 だから、そのいずれにもならないうちはラッキーなのだと思います。 裁判員制度なるものが導入される今となっては、考えたくないけれど重犯罪や極刑についてもっともっと個人個人が考えなくてはならないことだと思います。 ◆『ハーメルンの笛ふき』/サラ・コリン ぶん・ステファン・コリン ぶん・エロール・ル・カイン え・かなせきひさお やく
伝説とはいえ神隠し…怖い。大勢の子どもたちが消息を絶つということがハーメルンではおそらくあったからこそ生まれたのだと思えます。農奴徴集や子ども十字軍など歴史背景があるようですから。 ◆『メアリー・スミス』/アンドレア・ユーレン 作・千葉茂樹 訳 こんな仕事があるんですね。朝が苦手な私にはとてもじゃないが勤まらない。 ◆『ミミズのふし』(ふしぎいっぱい写真絵本 3)/皆越ようせい 写真・文 ミミズ、きもー。どアップ、迫力あり過ぎ。ミミズってめちゃくちゃうんこするし、オスメスの区別がなかったり知らないことばかりでした。 ◆『みるなのくら』(日本傑作絵本シリーズ)/おざわとしお 再話・赤羽末吉 画 十二の蔵は見ちゃいけないと言われるけど、やっぱ、見ちゃう。一の蔵から十一の蔵まではそれぞれの季節の風景。日本の昔話は最後に〆の言葉(ほとんど意味不明)がよくあるけれど、この作品は「いきが ぽーんと さけた。」でした。なんか、これ怖い。 ◆『がちょうのペチューニア』/ロジャー・デュボワザン 作・まつおかきょうこ 訳 『ほんを もち、これに したしむ ものは、かしこくなる』 頑張れ、ペチューニア。 ★『どこから行っても遠い町』/川上弘美
短編集と思いきや連作小説となっていました。 商店街にある魚屋さんの奇妙な男性二人暮らしの話から始まり、どこかしら何かしらそれぞれに接点を持った人々のこもごもな営みが綴られ、一連の小説となっています。 各人各様屈託を持ちながらも営み維持する。 人ってそういうものだと改めて思う。 小説全体の雰囲気は激しくないと思うのだけれど、それぞれに登場する人物一人一人の自我や意志は強烈だと私は感じました。 どの人にも温度を感じます、人がそれぞれ持っている温度。うまく説明できないのだけれど…。 ちなみに装丁の装画が谷内六郎。 谷内六郎の画を見ると、いつも私は父方の亡くなった祖父のことを思い出します。 ◆『げんきなマドレーヌ』(世界傑作絵本シリーズ アメリカの絵本)/ルドウィッヒ・ベーメルマンス 作・画、瀬田貞二 訳
12人の女の子たちの中でもいちばんおちびがマドレーヌ。そんなマドレーヌが盲腸炎に。 お見舞いにきた11人の女の子達に手術跡を見せるマドレーヌの得意げな感じや入院生活が羨ましく思ったのか11人の女の子が嘘泣きするのもかわいい。瀬田貞二さんの訳もリズム感があってきれいだなと思います。 奥付の裏のページにものすごい小さな字で、「この絵本には、パリの有名な建物や場所が、美しく描かれています。」として説明があり、再びまじまじと絵を楽しむこともできました。 マドレーヌ、他の作品もあるようなのでちょっと楽しみ。 ★『架空の球を追う』/森絵都
短編集でした。 「架空の球を追う」「銀座か、あるいは新宿か」「チェリーブロッサム」「ハチの巣退治」「パパイヤと五家宝」「夏の森」「ドバイ@建設中」「あの角を過ぎたところに」「二人姉妹」「太陽のうた」「彼らが失ったものと失わなかったもの」と11篇もが収録。掌編といえるような極めて短い作品も。 さまざまな背景の中に描き出された人々の心のひだに親近感を覚えたり、なるほどと思ってみたり、読み手である私もいちいち反応する。 特に印象的だったのは、「銀座か、あるいは新宿か」、「パパイヤと五家宝」と「彼らが失ったものと失わなかったもの」。 11篇のひとつひとつが過不足なく、安心できる一冊でした。 ★『ロマンスドール』/タナダユキ
著者は、『百万円と苦虫女』の人。 読み始めて早々に『南極一号伝説』を参考にしているだろうと思ったら、やっぱり主要参考文献として挙げられてました。 『南極一号伝説』既読の身なので、予めラブドール制作にかかる予備知識があったからより面白く読み進めることができました。 それにしても、男ども(哲雄の、相川さんの、加藤先輩の)の身勝手さ、はたまたそれ故に派生する残酷さには慨嘆する。意気地なしが浮気をするから泣きを見て、後悔するのだ。 一方女性(園子)は切なさを覚えるくらい気骨のある女性。 夫の浮気相手が喚き散らすのを諌めることができたのは彼女だし、見舞われた病魔に一人で立ち向かってゆき、病身の彼女に離婚したくないと懇願する愚夫にチャンスを与え、受け入れる度量を持つことだってできる。 そして、何よりも自らの身体をラブドール制作に役立ててと言う彼女の寛容さに男は太刀打ちできるはずがない。 ちなみに園子の言う「寂しかったから」というつまらない浮気の理由は立派な理由になると思います。(あくまでも女性びいき) スケベっていいなとも思います。 今日、考え事をしつつ実家のパソコンゲームをひたすらにやっている最中に発見してしまったことがある。
足をすくわれるような発見に愕然とする。 よくもまぁ今の今まで露とも思わずにいられたものです。 自惚れにもほどがあり、愚かしいったらない。 自分の行く末というものから精彩が失われてゆき、更には、来し方さえもが色褪せてゆく感じ。 では、発見によって明日から何かが変わる、あるいは変えられるかというとそういうわけではない。 “日々”たるものは、私なぞの思考に対し無遠慮に連綿と続くものであり、愚鈍な私はこの先竦みながら、これまでよりまんじりと“日々”を続けてゆく、見守ってゆくことになるのでしょう。 根明な人間ではないと承知はしてたけれど…暗い。暗すぎる。 ここまできたら、絶対にしないと思っていた、そして、している人を恥ずかしいとさえ思っていた 『自分探し』 なるものをいっそ始めちゃったりしちゃう? んー、やっぱり探しだすほど自分に何かあるとは思えない。 ないものは探せないし。 そんなことするぐらいなら今ある己に埋没しておこう。 埋没、埋没。 私には無遠慮に連綿と続くように映る“日々”。 けれども、ついこの間まで捕まり立ちだった幼子が二本の足でしっかり立っている!後姿の画像を見たり、イースター島やらマチュピチュやらペルーやらボリビア、アルゼンチンなどなど世界各国を巡り、世界の広さを体感している人からの報告メールを読んだりして、たいしたことのある“日々”というものがあることを知る。 こういうことって、ことのほか心強くさせてくれるものだと思う。 5月5日から4日間あった私のゴールデンウィークも本日で終了。
あ〜あ。 雨女という認識はなかったのですが、この4日間見事に晴れの日は1日たりともなく、雨・雨・雨・雨でした。 5日に釣りに行った以外何をするわけでもなく、昨日なんてあったとは思えないくらい寝て終わってたし。 今日はさすがに昼前に起きだして、久々にお部屋のお掃除をして、壊れたまま放置していたPCをコジマ電気に持って行って、近所のジョリーパスタで本を読みながら1人でダラダラとランチをし、ついでにドライブをしてみました。 PCは修理代の見積りしてもらうつもりで持って行ったら、見積り後にキャンセルしたら3000円かかると言われ、何ソレ?って感じ。 しかも対応してくれたコジマの店員さんがキーボードの全取替えでおそらく12000円くらいと言うので、キーボード以前に基盤部分のショートだと思われるのでキーボードを替えるだけでは済まないと思うのですが…と自ら言ってみたら、40000円くらいかかるかもしれないとか言い出し…。しかも、水などを零したことによる故障となると保険も適応外になると言うし、とにかくあまりの金額の違いにひとまず考えますと再び持ち帰りました。せっかく重い腰を上げたのに出ばなを挫かれたわ。 コジマに行く前に正規店ではないけれど、ネットで調べたところで見積もりしてもらった時は、16000円程ということだったので近いうちに(いつになるやら…)そちらに出そうかと思います。 明日から仕事だというのにモードが切り替わらず。 ま、土・日曜と出勤すれば月曜が休日だからとりあえず2日間踏ん張ろう。 ★『八番筋カウンシル』/津村記久子
タケヤス、ヨシズミ、ホカリという幼馴染の3人が地元八番筋商店街で30歳手前になって再会。そんな彼らが地元商店街に根付く人々(カウンシル)との交流を持つようになってゆく中で、過去の事件や現在が描かれていきます。 八番筋を禍々しく思ったり、時に煩わしく思っても、きっと彼らにとってそこはどうあれいわゆる故郷なんでしょう。でなきゃ、そこで何かを始めようと思ったり、あえてそこから出て行きたいという発想は持たないだろうし、そいう発想をするということはそこに囚われているということだから。 カジオ一家を街から追い出した地元の人達の集団的力にはうんざりする。 徒党は悪質だ。 一人じゃきっと何もできない人達が集まるのだから質が良い筈はない。 徒党による理不尽なセオリーの犠牲(ちょっと大袈裟だけど)を味わったことのある身としては、徒党に対して忌避感を抱いているはずなのに、かくゆう私も時に徒党の一人になったりする。 そういう自分に対して罪悪感を持つ。そして、罪悪感があるだけまだマシだと思ったりする。 でも、「まだマシ」ってなんなんだ。 罪悪感があるかないかに関わらず徒党であること、そして悪質であることに違いはない。 などなど、いろいろと思うわけです。 ちょっとずつ絵本を読んでいます。
読んでいて、趣旨は何なのか、あるいは言外の意味や含みといったものを考えてしまいます。 もちろんそういった類のことがある程度伝わってくる作品もありますが、そうでないものも多々あり、その度にととまどいを覚えます。 単純に受け止めればいいのだと思うようにしていますが、そういう風に意識しながら読むこと自体が“ちょっと違う”ような気がします。 ◆『鉢かつぎ姫』(新・講談社の絵本 10)/広川操一 画・千葉幹夫 文・構成 ◆『はちかつぎひめ』(松谷みよ子むかしむかし)/松谷みよ子 著・梅田俊作 画 同じ昔話でもお話に違いがありました。 私としては「松谷みよ子むかしむかし」シリーズの方が語りの感じや挿画が柔らかくて好きでした。 ◆『ひつじぱん』(たんぽぽえほんシリーズ)/あきやまただし 作・絵 「ぱんぱかぱーん」って言うのがカワイイ。 ◆『ずいとんさん』(日本の昔話こどものとも傑作集)/日野十成 再話・斎藤隆夫 絵 犯人はきつねさん。舌を出しちゃう仏像の表情が笑える。 ◆『ぼくがラーメンたべてるとき』/長谷川義史 作絵 意外や意外、何気に重みのある展開。谷川俊太郎の『朝のリレー』の詩を彷彿とさせる。 ◆『もけらもけら』(日本傑作絵本シリーズ)/山下洋輔 ぶん・元永定正 え・中辻悦子 構成 意味不明であり、リズミカルな言葉の羅列。子どもにウケるようですが、まったく理解できず。 ◆『くまくん』/二宮由紀子 作・あべ弘士 絵 かわいい、これ好き。くまくん、逆立ちしているから「まくくん」。やっぱりカバも登場。やまあらしくんを噛まずに言えれば…。オチの「ぐま」もかわいい。 遅ればせながらのゴールデンウイークがいよいよ明日から始まる私。
今日の仕事をこなし職場を一歩出れば、鈍太郎がお迎えに来てくれるから気分はもう休日だわと朝からウキウキしてました。 なのに! 昼過ぎになってお迎えには行けなくなったというメールが…。 何故かといえば、明日予定している釣りの準備と洗車で。 なにそれ、です。 釣りの準備はまだしも洗車って…。 洗車したいのはわかります。 けど、何時間も洗車しなくていいでしょ。 昨日から言っていたことを反古にするほど必要なことじゃないと思う。 お迎えに来てくれると聞いて、昨日から嬉しくて楽しみにしていたのに。 明日もしかしたら雨かもなんだよ。 ナンセンスな鈍太郎です。 世の中、ゴールデンウィークで浮きだってますな。
ふーんだ。 いいのよ、いいのよ、皆さん楽しくやっちゃって。と…へそを曲げてみたりするのですが、周囲が浮きだっているとやおら感染してきます。 昨日は仕事の後、サッカーの観戦に行ってまいりました。 鈍太郎のお供です。一緒にいられるならばと引っ付いて参りました。 味の素スタジアムへタクシーで乗りつけるというVIPぶりです。 それにしてもスタジアムって気持ちが良い。 眼前に広がる芝生の青さ、応援する人達の熱気の中にそよいでくる風、そしてビール。 ふはっ〜ってな感じになります。 で、試合はFC東京vs大宮アルディージャ。 サッカー無知のわたくしでもシュートが決まったりすると「おぉ!」となります。 喜びというより、これはたぶん驚き。なんだか吃驚する。 FC東京の勝利で終えました。 ご機嫌の鈍太郎。ついでに鈍太郎のお友達メンバーの面々も皆さんご機嫌。 試合の後、メンバーの一人のお宅にお邪魔させてもらい、焼肉会やりました。 前からこのお宅に行ってみたいと思っていたので、嬉々として私も引っ付いて行ったのでした。 お宅は一人暮らしなのにゆったり広々。しかも、男子一人住まいなのに綺麗で整っているし、食器やら調味料やらも各種色々と揃っていて、なんだか大人だなぁと感心。 自分の頼りない一人暮らし、そして無法地帯と化している部屋が疎ましくなりました。 それはさておき、このお宅に行ってみたかった最大の理由…イタチーズ(フェレット5匹)とご対面。 かっわいいー。すたこらサササと動き回るのを見てるだけでも飽きないし、抱っこもできた。 やっぱ、何か飼いたい!と強く思うのでした。 焼肉も沢山食べて、お酒も沢山飲んで、寝てしまった鈍太郎を余所につべこべと沢山お喋りしました。 喋り過ぎたか?ま、いいやね。 寝入る鈍太郎を起こし、お暇した時にはもう深夜2時過ぎ。 翌日仕事だというのにすっかり浮かれきってしまいました。 しかも、タクシーに乗ったら気分悪くなるは眠たいはで無法地帯の我が部屋に着いた時には力尽き、着替える余力すら残っていなかったわたくしは、かなりみっともないことになっていました。 でも、楽しめました。 翌日の今日、ちゃんとお仕事には行きましたしね(ちゃんと仕事したかは別)。 明日、仕事に行けばあたいもゴールデンウィーク始動! |
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